昭和54年01月21日 朝の御理解



 御理解 第78節
 「神の機感にかのうた氏子が少ない。身代と人間と達者とがそろうて三代続いたら家柄人筋となって、これが神の機感にかのうたのじゃ。神の機感にかなわぬと、身代もあり力もあるが、まめにない。まめで賢うても身代をみたすことがあり、また大切な者が死んで、身代を残して子孫をきらしていまう。神のおかげを知らぬから、互い違いになってくる。信心して神の大恩を知れば、無事達者でも子孫も続き身代もでき、一年まさり代まさりのおかげを受けることができるぞ。」

 とございます。どうでも神の機感に適う氏子にお取立て頂いて、いよいよ神様の大恩を分かり、天地の大恩を分からしてもろうて、身代も出来、人間も出来、代勝りにおかげを頂いていく、おかげを頂きたいものであります。これはもう、誰でも願わん者はないと思いますね。ところが、なかなか問屋は簡単にそれをおろしてくれないと、ね。大抵理詰めよう、目細う。ね。そして、これを子々孫々にも残して伝えたいと。
 例えば財産一つでも、いろんな工夫工面をしていたしてますけれども、それこそ、からように書く三代目と言った様な結果しかうまれてこないのが、私共の人間社会の、ま、栄枯盛衰は世のならい。と言う様な争いであきらめきってしまっておるのです。ね。それでも何とかと、こうもがいておるんですけども、結局はそういう結果しかならない。もし、ここに本当に、親の代より子の代、子の代より孫の代。と繁昌していけれるような、本当に道があるとするなら、ね、その道を体得さして頂かなきゃならない。
 昨日研修の時に、もう本当に掻き口説くように、ここで合楽理念が説かれる。こういう素晴らしい、しかも有り難い、ね。楽しい、ね。勿体ない。そういう心だけではなくて、ね、愉快にまでなっていけれるここにある。それを何としたならどうしたならば、皆にあぁそうか。とこう合点をいかせ分からせれる手立ては、何かないものだろうか。と言うて真剣にその事を話した事ですけれども。せっかく合楽に御縁を頂いて、そういう信心が説かれておる。今日の御理解で言うなら神の機感にも適う行き方。ね。
 親の代よりも子の代と栄えていく道を説かれてあるのが合楽理念。しかも難しくない楽しそう、ね。愉快にまでなっていく道なんだ。みんな本当に簡単なというか合楽の信心はですね。もう簡単でなからなければ、世界万民にむずかしい事ばっかり言うたっちゃ分からん。だから簡単にそれが、いうなら自分のものにして行けれる手立て。ところがあんまり簡単だから、皆が見向きもしないのだろうか。
 とにかく合楽の信心はまず、何と言っても、だから単純にならなければいけない。という話しをしたんです。ね。もうあんたばっかりは単純なの。と言う時は、あれは軽蔑して言うわけなんです。あんたバカじゃあるの。と言う意味なんですよね。大体言うとしたら。ところが、合楽の信心は単純にならなければおかげにならんです。素直にス-ッと入っていけんです。どんな本当な事を言うておっても。
 昨日半ばに私は、佐田先生なんか兄弟がここで修行しよります。ね。箱崎教会ですから、も、全然手続きもちがう。それでも求めて止まないものを、二人共一生懸命求めに求め続けてきて、例えば佐田先生、兄さんの方なんかは銀座の教会に何年間も修行させて頂いた。その偉い先生の話しも色々聞いてみた。「先生、あんたどういうわけ合楽に、こうして本気で修行しようという気になったか。」と言うて聞かして貰ったんです。そしたら私はある時に、先生の御理解第三節の御理解を読ませて頂いた。
 もうその時の感動、もう金光教の信心はこれだと思うた。とこう言うのです。そりゃもう、御理解三節と言えばもう、御理解の中でも、教典の中でも一番大切にされる程しに、これは御理解ですけども大体は御栽伝。神様が直接に言葉を下された教えだと言われております。ですから、大変大切にするです。ね。もう、合楽の先生が説かれるこの御理解三節に、ま、ひかれたというよりも、それに魅せられてしまった。
 もう永年求め続けておったのが、ここに答えが出てきた。という感じで合楽入りをさせて頂いた。と言っております。皆さんどうでしょう。御理解三節がそんなに大切なもんだということが。ね。合楽ではそれをもうあらゆる角度から説いてるんですね。御理解三節を。もうあれが分かってそれがね、単純にならなければそれが分からんですね。一切が神様の御物だとね。日柄やら方位やら言ってきたその事が、前々のめぐりで難儀のもとになっておるんだ。と教祖は言っておられるから、あまりにも単純です。
 ですから、そこんところを合楽でとりあげて、というよりも、そこに気づかせて頂いて、金光教の信心さして頂いて、ここが分かったら、これからめぐりを積む事はない。ね。これからはね、本当のいわば、ここんところが釈迦もキリストも説き得てないところ。というのが大体ここなんですね。そういう素晴らしい事が、あまりにも単純に説いてありますから、自分のものでないものを自分のように思う。ね。氏子の家宅、神社仏閣の境内でも、みんな神の地所。というふうに言っておられます。
 だからほんにそうだ。と分からなければ出来んのです。そげん言うたっちゃ、私のものは私のもの。と言う様な事では、いつまでたってもそこんところは分からん。ね。だから、やはりバカとアホウで道を開け。とおっしゃるが、まずは単純にならなきゃならない、人間が。ね。単純で分かるように、人間の絶対の幸福が、そこに約束されるのだからね。合楽理念は。次に恒行先生の方に聞かしてもらった。弟さんの方です。「先生、あんたはどういうわけ。」「親方の方が、ここに帰依したから。
 というわけでは。」大体は、恒行先生の方が早かったですもんね。ここに御縁を頂いたのは。ずいぶんいろいろ勉強した人です。そしてどういう事に、そのま、感じて合楽入りをしたかと言うと、合楽の先生がもう、口を開けば成行きを大切に。とこう言われる。もう、天地との調和はこれ以外にはないと思ったち。天地との調和。そこから合楽の世界が生み出される世界がある。という事になるわけなんです。だからこれを、いよいよ自分のものにして以外はない。と言う様に。ね。
 ですから、昨日も私はある新聞を見せて頂いて、偉い先生方の座談会があった。ね。その中に、もうどの先生方でも、とにかく今のようなことではいかんから、頑張れ頑張れというような、意味の話しをみんなしておられます。こげなこっちゃ先代が泣かれますよ。と言うて、それこそ、も、非奮ころがして言っておられます。今のこっちゃでけん。頑張れ頑張れ。と。んなら、どげんして頑張るか。という事を誰も説いて。もう新聞一面に書いちゃるです。ね。
 どういう信心をすれば、先代が喜んで下さる様な事になるか、と。神様が喜んで下さる様になるかという事を。なら頑張れ頑張れだけではいかん事が分かりますね。合楽ではそこんところをです。ね。噛んで含める様に、和賀心になるためには、ね。本当に有難うなり楽しうなり、しかも愉快にまでなっていけれる道がここにあるんだ。という事をま、あらゆる角度から説く訳です。神の機感に適う行き方を説くのです。
 昨日、福岡から参って来た若い婦人の方が、この人は子供さんが、現代の医学ではどうにも出来ない。という子供を持っておるです。それが何とか、信心でおかげ頂けるなら。と言うてお参りをしてくる。それがいろいろ聞かせてもらいよったら、高芝さんところの盛昭さんがおる所の近所におられる。という話しでした。昨日もお参りをしてきて、ここでお届けをいたしますのに、主人のお母さんがこちらへ見える。という事になった。それで、いっとき話しがあったけれども排他的です。
 ともう人は寄せつけない。という性根があって、も、どうしてもお母さんと一緒に生活出来ないと言い張ってきた。ところが、またその話しがおこってきた時、丁度おかげの泉を開かせて頂いたら、いや、先日お参りをしてきて、ここで御理解を頂きよったらじゃったかも知れません。あの大きくなる。という事。おかげを頂くためには大きくなる。それには、いうならばね、したい事がしたくなくなる、したくなかった事がしたくなってくる。人間の性根ち言うのはそんなに変わる。
 信心をさして頂いて徳を受けてくるとそうなる。という玉水の湯川先生のおことばですね。これは。そういう話しを聞かせて頂いてから、その、気づかせて頂いた。と。この子供が本当におかげを頂くための修行なら、いやなお母さんも呼ばせてもらおうち、こう思ったちね。そして主人にその事を話したら、主人も大変喜んでくれた。そしたらその朝、昨日の朝ですたいね、お夢の中で『心づくし』と、お夢とも誰かが言ってくれるので目がさめた。ははぁ只辛抱して親を迎える。
 そりゃ子供のための修行になる事だから。もう一つ、どんな嫌であっても嫌な親を呼ばせてもらおう。ここは修行です。修行で受けようとこう思った。ところがある朝、神様がね、『心づくし』と仰った。これは神様、まちがいない神様のおことばでしょう。だから只ね、歯をくいしばっての修行ではなくて、そのお母さんに心づくしをさせて頂こうと思った。と言うて感動して、ここでお話しをするんです。私も感動しました。ね。もう、神の機感に適うた生き方が、もう出来だしたわけですね。
 それには、神様が自分がその気になったら、もう神様が次の信心を教えておられるでしょうが。合楽の場合にはね。和賀心になれ。ね。と例えば天地との調和。と言われるが、天地との調和はどういうあり方になったら、天地と合楽することが出来るか。リズムが出てくるか。生みなされるか。という事を、みなさんは噛んで含めるように聞いておられるわけです。ね。排他的なその婦人がです。ね、いわば、もう本当にむしずが走るように、いやな主人の親だけれどもね。
 それを、この子が助かる事のためならば、修行と思うて受け入れようという気になった。そこには主人の喜ぶ事になった。ね。そしたら神様がまた、それだけではないぞ。と教えとられるでしょうが。ね。それだけではいけない。その嫌な親に、一つ心を尽くして仕えてみよう。そこから親も喜ぶ、自分も嬉うなってくる世界が開けてくるぞ。と言わんばかりに説いておられます。頑張れ頑張れじゃないです。さぁ寒修行が始まったけんで、さぁ頑張らんの。と言うだけじゃないです。
 もう持たして、帰さずにおかんものが必ずあるから、ここに、いうならばぢかに、私の話しを聞かなければ分からない事になりますから、ね。いわば、同じ頑張れ。と言うても頑張れ、という内容がちがうでしょうが。ね。まずは、神の機感に適うた行き方をいわば、次々と求めていって、段々、神の大恩も分かり、ね。互い違いにならんですむおかげにもなり、家柄一筋となって、ね。それが、二代に三代に伝わっていくような、信心の徳も受けられる事になり、おかげを頂く事になるのです。
 昨日ある方が、今の大きくなる。という事。それで、例えば好かんことでもならないけない。そればってん、あの人ばかりはどうしても好きになれない。と。それに二、三日取り組んでみた。けれどもやっぱり、好かんものは好かん。という気が致します。これはある人がこれを行じてみて、むつかしい事に気がついたわけですね。やっぱり。やっぱり、行じてみなければ次にお伺いすることもないです。こげんして取り組んでおりますけども、なかなかむつかしい。
 どう言う様な生き方にならせて頂いたら好きになれるでしょうか。というお伺いがございました。ある方から。それで私自身の事を申しました。私もやっぱり好き嫌いが多い。けれども、例えば人間の場合人が好かん。という人は誰でも好かんです。やっぱりね。だから、本当にまぁ不幸な星の下に生まれついた人です。人が好かん。例えば動物の中にでもね、可愛らしい動物もあれば、もう見たらゾォッとするごたっとがおるでしょうが。人間の中にもおるです。
 可愛いらしうてこたえんごたるとがおる、かと思ったら、も本当、あれが来よるけん横道を切ろうというごたるとがおるです。やっぱりね。だから、そこに神心を出せ。と私が言います。誰からでも好かれん人。いうなら気の毒な人。ね。だからその人の事を祈れ。と私が申しました。もうそしたら、わぁもう祈るという事なら出来る。あの人は誰からでも嫌われちゃる。ね。
 気の毒な人と分からせて頂いたら、自ずと神心がわいてきてその人の事を、どうぞ誰からでも愛されるような人になられますように。というて祈らしてもらえ。ね。そこからいうならば、ね。いうなら、好きにはなれなくても、その人の事を祈れれる私になる。という事が大きくなる事ですよ。と言うて、お話しをしたことでした。ね。二、三日取り組んでみたけど、むつかしか。だからどういう生き方にならせて頂いたら、取り組んでみなければ、いうならば分からんです。ね。
 はぁ分かったようにあってから帰っても、実際はそれを行じてみたところか、分からん事が出てきた。だからあくる日、また帰って来てお伺いをしたら、それが分かった。と。稽古というものは、みんなそうですね。そうして初めて、自分のものになるのです。だからその本当の事をね、自分のものにしなければね、おかげにならんです。いうなら、神の機感に適うた。という心がけにもなれないです。
 昨日、そういう研修をしましてから、御神前に出らせて頂いたら、もう『野性的な女の方が、ここから上を見せて頂いた。もうお乳をがもいっぱい張ってる所を頂いたんです』ね。ははぁ本当に今日、も、どうしたならば、あの私が言っておる事がみんな分かって、本当、親先生、あなたが言いなさる通りですよ。とこげん素晴らしい事をどうして分からんじゃろうか。という話しをしとったね。
 その事をもとにかく神様は、も、痛いほどに乳を張らしてござる。そういう、私の言っておる事を分かる。そしてすがる所にです。ね、神様も楽になられる。私共も腹いっぱいのおかげを受けられる。という事になるのですから。神様は乳を張らして、いうなら、みんなの本当の信心を願っておられる。いわゆる、神の機感に適った氏子の出現を願っておられるわけです。ね。
 ですからいよいよもって、まず神の機感に適った氏子にならせて頂く事を願い、そしてね、そこから自ずと分かってくる天地の大恩。神様のおかげが分かってくる。神のおかげを知らんから、互い違いになる。と仰る様に。ね。本当のおかげを、いうなら、子にも孫にも、子々孫々伝わるようなお徳を頂くために、神の大恩も、神のおかげも分からなければなりません。ね。根本のところの、神の機感に適うた私にならせて頂いての勉強、でなからなければ本当の勉強になりません。
   どうぞ。